制作にあたって/片岡佑之
[1]楷書について
楷書はもっともスタンダードな書体といえます。漢字の書体は、篆書、隷書、そして隷書から草・行・楷の各書体が発生したともいわれていますが、楷書の典型の確立は唐代のはじめ頃とされています。その背景には科挙の試験において正確を期する必要性があったともいわれています。字様(じよう=文字の手本の意)学者の顔元孫(がんげんそん)が著した『干禄字書』(かんろくじしょ=字体を正・通・俗に分類)を甥にあたる書の大家・顔真卿(がんしんけい)が碑文にしたことなどから規範となる楷書体が広まったともいわれ、楷書はもっとも整った正式な書体となりました。そのことは今日でも変わらず、わたしが書道をはじめたころは「楷書十年」などといって、まずは楷書の基本点画からはじまり、つぎに基本となる漢字を書かされました。十年も経つころには楷書の習得はもとより、他の書体をも書ける素地が自ずとできているというのです。
ところで、唐代には製版印刷術が発明されており、はじめは版木に毛筆で書かれた楷書を精刻していましたが、宋代には版下文字の専門職による平板な楷書となり、明代中後期には独特の画一的な点画構成による現在の明朝体が生まれたといわれています。その明朝体は十九世紀に鉛活字印刷が導入されたあとも採用されたため、その後の印刷用の標準書体になったとされます。したがって明朝体は楷書の一支流に位置付けされるものですが、毛筆で書かれた楷書体とは点画等において一致しないところがあります(現在の楷書は『康煕字典』=明朝体で印刷、清代編纂=を拠り所とするために楷書体の正しい字形をめぐって議論の一因となっています)。
本書体の漢字の揮毫にあたっては、書体字典の楷書体を参考にしつつも、識別の必要性などから明朝体の点画等を取り入れたものなどがあります。
[2]6715字の漢字
本書体の制作のために書かねばならない漢字の文字数は6715字ありますが、書いたことのある漢字よりも、初めて書く漢字のほうが多かったように思います。そこで初めて書く漢字については、あらかじめ書体字典
で字形を確かめておく必要があります。それは楷書の点画を確認しておくというだけではなく、まとまりのある美しい字形にするためでもあります。書体字典に載っている古典の文字が今日まで伝承されてきたのも、そこに抽象的な書の美が具現化されているからでありましょう。古典の筆跡には美しい文字を書くための創意・工夫が巧みになされており、その創意・工夫を自分の目と手でくみとり、自分の書こうとする文字に応用するのです。しかし、そうしたことは今回の揮毫を書体デザイナーの兄から話のあったときには、あまり意識していませんでした。その文字数の多さに圧倒されて筆をとろうとしなかったわたしに「とにかく一通り書いてみることだよ」といって書きなれた書体で書くことをすすめられました。そこで、あまり字書もよく見ずに書き始めた、というのが実際のところでした。したがって、あとから見直すと不出来な文字も多く結果的に第一水準の漢字をすべて書き直すことになったのも、やむを得ないことでした。
書体の原字の揮毫という実質5年におよぶ大仕事に取り組んでみて感じたことは、はじめからすべてがうまく運ぶということはなく、試行錯誤のなかでよりよい方向をめざすということでした。しかし、書体が出来上がってみると(原字の揮毫以外は兄が担当)、困難な仕事であっただけに格別のものがあります。
毛筆のカスレについて/デジタル担当・片岡朗
毛筆で書かれた原字をデジタルデータに置き換えるにあたって考慮しなければならない問題にカスレがあります。カスレは毛筆が含む墨と運筆の速さなどから生じるもので、見るものに勢いやスピード感といったものを与えるため、それだけ特長のある字となります。反面、カスレが多いと字形が複雑になりデータ量が増えて表示速度や可読性に影響を及ぼします。毛筆の字をフォント化したものにカスレを表現しないものが多いのは、こうした事情によるものです。
『佑字3』には、毛筆のカスレを活かした字があります。原字をスキャンデータに置き換えたときに生じたカスレを残すことは、原字により忠実である、という揮毫者の個性を優先した考え方でもあります。近年はコンピュータの処理能力があがったため、フォントデータ量が許容範囲であれば表示速度にストレスはありません。また、カスレの可読性に関しては、カスレが読む時に視覚の邪魔になるかどうかということになります。それは、左頁の例のように大きさによって異なります。カスレは字が小さくなるほど目立たなくなるために読みにくいとは感じません。 逆に字が大きくなるほどカスレは目立ち字の存在感・躍動感は増すと考えました。そこで「強すぎず、弱すぎず、程よく」を判断基準にしてカスレを取り入れてあります。